「特別じゃなくていい。普通でいい」
そう言いながら、私たちは“普通”を探し続けている。
でも気づけば、その“普通”という言葉の中には、ありえないほど高いハードルがいくつも詰まっていたりする。
仕事は安定していて、恋愛もまあまあ順調で、実家との関係も円満。
オシャレもそこそこ楽しんで、美容院にも定期的に通って、SNSに載せる写真も“映え”すぎない程度に整っている。
そんな“普通”のライフスタイルを、私たちは無意識のうちに目指してしまう。
でも、本当に「普通でいい」って、簡単なことだろうか?
“普通であること”が理想になった時代
いつからだろう。“突飛な夢”や“他人と違う生き方”よりも、
“みんなと同じように見える幸せ”が一番の理想になっていたのは。
「彼氏と週末に映画を見て、2LDKのマンションで同棲して、来年には結婚して子どもも視野に入れて…」
そうやって進む未来が、“普通”で“安心できる幸せ”だと、誰かが勝手に決めたように。
だけど現実には、週末は疲れすぎて一日中ベッドにいて、
彼氏とのLINEは3日未読で、キャリアだってまだ揺らいでる。
それなのに、私たちはつい、言ってしまう。
「まあ、普通でいいから」って。
本当は“普通”のふりをしながら、“理想的”を求めて疲れてるのに。
“普通”を演じることに疲れてない?
どんなに心がざわついていても、
「大丈夫だよ」と笑ってしまう自分がいる。
本当は誰かに話したいこともあるのに、
「そんなに重く受け取らないで」と自分で軽くしてしまう。
“普通”をキープすることに全神経を注ぎすぎて、
本来の“自分”がどこにいたか、見失ってしまう瞬間がある。
「ちゃんとしてるね」「しっかりしてるよね」って言われるたびに、
“そうでなきゃいけない”って、勝手にプレッシャーを感じてしまう。
本当は、ぜんぜん大丈夫じゃないのに。
誰にも迷惑をかけない生き方、なんて不可能
「周りに迷惑かけないように」「ちゃんとしなきゃ」
そう思って頑張ることが、悪いわけじゃない。
でも、そればかりを軸にして生きていると、どこかで無理が出る。
生きていれば、誰かに迷惑をかけてしまうことだってある。
気づかないうちに誰かを傷つけたり、逆に自分が傷ついたり。
それは“普通”であることとは、まったく別の話。
なのに私たちは、「ちゃんとしてなきゃ」「普通でいなきゃ」と、
自分を厳しく律してしまう。
まるで、“人間らしさ”が欠点であるかのように。
“普通でいたい”の奥にある、本当の願い
もしかしたら、私たちが「普通でいい」と言うとき、
それは「安心したい」「拒絶されたくない」という願いなのかもしれない。
特別でなくても愛されたいし、
何も持っていない日も受け入れられたい。
「私、これでいいよね?」と誰かに肯定してほしくて、
“普通”という曖昧なフィルターに自分を押し込めてしまう。
でも本当は、「普通でいたい」と願うその心の奥に、
誰にも見せていない“本音”が眠っている。
それに目を向けることこそが、自分に正直に生きるってことなのかもしれない。
“普通”の代わりに、“素直”でありたい
たとえば、泣きたい夜は泣いてもいいし、
不安な日は友達に頼ってもいい。
恋がうまくいかない日も、キャリアが見えない朝も、
「こんな自分、誰かに知られたらダメかも」って思う夜も、全部アリ。
“普通”であろうとする代わりに、
“素直”でいることを選べたら、少しだけ呼吸がしやすくなる気がする。
それができたとき、自分にとっての“幸せ”って、
意外と近くにあるのかもしれない。
「普通でいい」って、呪いじゃなくて選択肢のひとつ。
でもそれを信じすぎて、自分の“本当の声”を見失わないようにしたい。