「泡の音って、なんだか恋が始まる時に似てませんか?」
ワインバー「Noir」のカウンターで、隣に座ったその人は、そう言って笑った。
この数ヶ月、ずっとここに通い詰めていたけれど、彼に会ったのは初めてだった。
スーツ姿にスニーカー。時計はそこそこ高そうだけど、ネクタイは曲がっている。
真面目そうで、でもどこか抜けていて――私は、気を許した。
「マスター、おすすめのスパークリング、ありますか?」
マスターが差し出してくれたのは、ブラン・ド・ブラン。
シャルドネ100%のシャンパーニュ。
繊細で、きめ細やかな泡立ちに、青リンゴとレモンピールの香り。
「恋が始まる前って、こういう味がする気がするんですよ」
彼のその言葉に、私は一瞬、グラスを持つ手が止まった。
実は、先週。
年下の後輩、佐久間くんからの告白を――丁寧に、断ったばかりだった。
彼の真っ直ぐな気持ちは本物だった。
でも私は、その想いに“応えよう”としてしまいそうな自分が怖くなった。
誰かの優しさに甘えて、自分の心をごまかしてしまいそうだったから。
「ちゃんと、自分の気持ちで恋をしたい」
そう思ったのだ。
「あなた、よくここに来るんですか?」
「いえ、今日が初めて。実は……失恋の帰りで」
その言葉に、不思議と笑ってしまった。
「私も、最近、ちょっとそうだったかも」
同じタイミングで、似たような気持ちでここを訪れたなんて――
まるで映画みたい。
「乾杯しませんか?今日が、“誰かの後ろ姿を思い出さない夜”になった記念に」
彼がそう言ってグラスを掲げた。
カン、と控えめに触れ合ったグラスから立ち上る泡の音が、
本当に、何かが始まる音に聞こえた。
その夜。
ブラン・ド・ブランの軽やかな口当たりと、心がほんのり浮くような感覚は、
恋の予感とそっくりだった。
「また、お会いできたら嬉しいです」
帰り際、彼がくれた名刺を胸ポケットにしまいながら、
私は今日が“最後の失恋の夜”になった気がしていた。
恋は、探すものじゃなくて、
ちょっと背伸びしたグラスの先に、
そっと待っているものなのかもしれない。
そう気づいた今夜の私は、もう「誰かの代わり」ではなく、
「私だけの恋」を始められそうな気がしていた。
《あとがきにかえて》
5杯のワインと、5つの夜。
ひとりで飲むワインも、誰かと飲むワインも、
その一滴一滴に、過去と未来が映し出される。
恋に疲れた夜、誰かを思い出す夜、
もう一歩踏み出したい夜――
どんな気持ちでも、ワインは静かに寄り添ってくれる。
あなたにも、心にそっと寄り添う一杯との出会いがありますように。
そしてそれが、いつか、素敵な恋の始まりになりますように。
🍷『夜のワインは、恋の代わりに。』――