――あなたと過ごした夏が、
まだ私の中で咲き続けている。
彼と出会ったのは、南フランスの小さな村だった。
アヴィニョンから車で1時間ほど走った先にある、
丘の上のワイナリー兼B&Bで、私はひと夏のバカンスを過ごしていた。
東京での生活に疲れ果てて、
「一度、全部リセットしたい」と思ったあの頃の私は、
何も決めず、航空券だけを手にしていた。
そして、出会った。
オリヴィエ――現地でワイナリーの収穫を手伝っていた、パリ出身の青年。
「ワインの香りって、人の記憶を蘇らせる力があるんだ」
彼がそう言いながら差し出してくれたのが、
その村で造られたヴィオニエだった。
🌸 ヴィオニエ/産地:コート・デュ・ローヌ地方、コンドリュー(仏)
香り高くアロマティック。白桃、アプリコット、オレンジブロッサム、スミレのような華やかさ。
ボディはしっかりしているのに酸は穏やかで、まるで“自信のある女性”のようなワイン。
最初の一口で、心がほぐれる。
そして二口目で、彼に惹かれていく自分に気づいた。
「君の笑い声、太陽みたいだ」
「それ、フランス人特有の口説き文句?」
「違う。本気だよ」
短い夏は、まるで映画のように鮮やかだった。
ぶどう畑でキスをして、朝焼けを一緒に見て、
未来の話はしないまま、ただ“今”を重ねた。
でも――その夏は、永遠ではなかった。
東京に戻る直前、彼は言った。
「一緒にいたい。でも僕には、こっちの生活がある。
それを全部投げ出すことは、今はできない」
私は頷いた。
それが現実だと、知っていたから。
「じゃあ、あの夏は?」
「……君と過ごした時間だけは、全部本当だった」
それから3年。
私はまた、「Noir」のカウンターに座っている。
マスターが静かにグラスを差し出す。
「今日は、これを」
目の前のワインは、ヴィオニエ。
あの夏の日の、あの香り。
花束のようなアロマに、胸が苦しくなる。
「懐かしい人、思い出しました?」
マスターの問いに、私はふっと笑う。
「ええ。南フランスで出会った、ひと夏の恋」
「いいですね。ヴィオニエは“記憶のワイン”とも呼ばれています」
グラスの向こうで揺れるのは、もう戻らない時間。
でも、後悔はなかった。
本当に好きだった。
そして、本当に終わった恋だった。
私たちは、“続ける”ことを選ばなかったけど、
“嘘をつかずに終われた恋”は、
それだけで、人生にちゃんと花を咲かせてくれる。
またいつか、南フランスに行こう。
ヴィオニエの香りを胸いっぱい吸い込んで、
過去を優しく抱きしめて、笑える自分でありたい。
そう思えた今夜、
私は少しだけ、大人になれた気がした。