カフェの窓際、ひとりでラテを飲みながら、
私はいつも通り、スマホの画面に何かの“既読スルー”を見つけてため息をついた。
隣の席にはカップル。
彼女が楽しげに話しているのに、彼はずっとスマホをいじっている。
会話というより独演会。
あの2人の間にあるのは、“共有”じゃなく“並列”。
私は思った。
「ふたりでいるのに、こんなに孤独そうって、どういうこと?」
世の中には、ふたりでいるのに孤独な人がいる。
そして、ひとりでいるのに幸せそうな人も。
私たちはなぜ、“ひとり”を恐れて“ふたり”を選ぶのだろう。
その“ふたり”が、心の通わない関係だったとしても。
20代の頃、私は“ひとりでいる女”を恐れていた。
ひとりで映画に行く、ひとりで焼肉、ひとりで旅行。
そういう自立した女性に憧れつつも、
どこか「でも彼氏いないんでしょ?」という
世間の冷ややかな声が耳に残っていた。
“ひとりでいる女”=“誰にも選ばれなかった女”
そんな不毛なレッテルを、知らず知らずのうちに自分にも貼っていた。
だから私は、“関係”を持つことにこだわった。
そこに愛がなくても、予定調和でも、
誰かの隣にいることで安心していた。
でもある日、気づいてしまったのだ。
誰かと一緒にいるはずなのに、心はずっとひとりぼっちだってことに。
記念日なのに、彼の反応はそっけない。
私が泣いても、スマホから目を離さない。
それでも、私は「彼氏がいる」という事実にしがみついていた。
ふたりでいるのに、
こんなにも孤独を感じる夜があるなんて。
それなら、ひとりで好きなワインを飲みながら
Netflix観て泣いて笑ってた方が、ずっと豊かだと思った。
ふたりでいること=幸せ。
それって、もう時代遅れかもしれない。
私たちは、相手がいることで自分の価値を感じようとするけど、
本当は**「誰といても、私は私でいられるか?」**が一番大事なんだと思う。
ひとりでごはんを食べる。
ひとりで旅行に行く。
ひとりで誕生日を祝う。
それを「さみしい」と感じる人もいれば、
「自由」と感じる人もいる。
私は、やっと後者になれた気がする。
もちろん、恋はする。愛もする。
でも、もう誰かに依存して幸せを感じるのはやめようと思った。
誰かの隣で孤独を感じるくらいなら、
ひとりでちゃんと幸せを感じられる自分でいたい。
それができたとき、
もしかすると本当に愛すべき人と出会えるのかもしれない。
“ふたり”が孤独じゃなく、“ふたり”が自由であれるような関係。
人生って、案外うまくできてる。
誰かのとなりにいないことで、自分の本音が見えてきたり、
ひとりの時間にこそ、自分の価値に気づけたりする。
“ひとりの幸せ”を知っている女性は強い。
なぜなら、「誰かがいないとダメ」じゃなく、
「誰かがいても、いなくても、自分で幸せを選べる」から。
だから今夜も、私はひとりで乾杯する。
スパークリングワイン片手に、
ふたりでいた頃より、少し自由で軽やかな私に。