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幸せそうな人を見ると、ちょっとモヤるのはなぜ?

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たまたま開いたInstagramで、
学生時代の友人が指輪をした左手を嬉しそうに掲げていた。
「プロポーズされました♡」の文字と、バラの花束、夜景のレストラン。

おめでたいなぁ、幸せそうだなぁ。
そう思った“フリ”をして、私は無言でアプリを閉じた。

ほんの少し、心がザワついた。
別に羨ましいわけじゃない。
そんなに結婚願望が強いわけでもない。

でも、どうしてだろう。
誰かの幸せに触れるたびに、
自分が置き去りにされたような感覚になるのは。

「幸せそうな人」を見ると、
無条件に微笑む人もいれば、
私みたいに、ちょっとだけ“モヤっ”とする人もいる。

このモヤモヤの正体は、一体なんなのだろう。

それはたぶん、
「私は今、何も変わっていない」という焦りと、
「このままでいいのかな」という不安の混ざり合い。

誰かの幸せな投稿や笑顔は、
自分が目を背けていた感情に、
スポットライトを当ててしまう。

見たくなかった心の奥に、
無理やり光が差し込むような、あの感じ。

だから、“モヤる”のは悪いことじゃない。
それは、自分の気持ちに正直である証拠だ。

でも、そのモヤモヤに蓋をして、
「おめでとう!羨ましい♡」と無理に笑ってばかりいると、
気づけば、自分の本音がどこにあるのかわからなくなる。

私たちは、何度でも“自分の物語”に立ち返っていい。
誰かと比べて、順調じゃないと感じても、
“私の人生”は、ちゃんと私のペースで進んでいる。

あの子にはプロポーズ、私はコンビニスイーツ。
あの子はベビーシャワー、私はNetflixとポテチ。

どちらが“正解”かなんて、決める必要はない。
それぞれの幸せは、どれも“その人の人生のかけがえのない一瞬”だ。

でも、やっぱり誰かの幸せが
“自分の痛み”を刺激するときがある。

それは、まだ自分の中に癒えてない感情がある証拠。
叶わなかった恋。
別れたばかりの彼。
どこかで感じていた孤独。

そんな未消化の気持ちが、
誰かの笑顔でふいに疼き出す。

でもそれも、悪くない。
その痛みすら、自分の一部だと思えるなら、
ちょっとずつ、前に進める気がする。

だから、“モヤる”自分を責めなくていい。
「まだここに引っかかってるんだな」と気づいて、
そっと寄り添ってあげるだけでいい。

「私、今ちょっと寂しいんだな」
「自分の人生、もう少し変えたいと思ってるんだな」

そうやって、
誰かの幸せから“自分の本音”を拾い集めることができたら、
そのモヤモヤは、きっと“次のステージへの予兆”になる。

だって、心が動くということは、
まだ自分の人生に“もっと”を求めている証拠だから。

そう思えたら、誰かの幸せも、
少しずつ“眩しすぎるもの”から“希望”に変わっていく。

私たちは、私たちのタイミングで、
主演女優のように、舞台に立てばいい。

拍手が鳴るのが遅くてもいい。
そのぶん、きっと響くはずだから。

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