夜、スマホを手にしてはため息をつく。
「この人、本当に私を愛してるの?」
あるいは――「私の気持ちって、これって“愛”なの?」
恋ってもっと甘くて楽しいもののはずなのに、実際やってることといえば“確認作業”。返信の速さ、スタンプの有無、デートの頻度。気づけば愛を楽しむより、愛を測ろうとしている自分がいる。
けれど、そもそも私たちは“愛”の定義を誤解しているのかもしれない。心理学によれば、人はそれぞれ愛を別の言語でしゃべっているらしい。言葉で「好き」と伝える人もいれば、肩にそっと手を置くことで示す人もいる。あるいは家まで送る、荷物を持つ、といった行動で愛を表す人もいる。もし、あなたが「毎日LINEが欲しい」派で、相手が「ただ隣にいることが愛」派だったら? それはすれ違いではなく、翻訳がうまくいっていないだけなのだ。
さらにややこしいのは、私たちが「ときめき=愛」と思い込んでいること。ドキドキするのは脳内ホルモンの仕業で、科学的に見れば長続きするものではない。なのに「最近ときめかない=愛が冷めた」と勘違いしてしまう。でも実際は、ただ関係が落ち着き、安心できるものに“進化”しただけかもしれないのだ。
そしてもうひとつ、忘れちゃいけないのが依存と愛の取り違え。会えないと眠れない、既読がつかないとパニックになる。これは「愛してる証拠」ではなく、自分の不安を埋めるために相手を必要としているだけ。心理学的には“愛着不安”と呼ばれるもので、要するに「愛の形に見せかけたしがみつき」だ。苦しい恋がすべて“本物の愛”とは限らない。
結局のところ、「これは愛なのか?」という問いには正解がない。けれど少なくとも、疑うよりも「相手はどんな愛の言語を使っているんだろう?」と翻訳しようとする方が、よっぽど私たちを楽にしてくれる。もしかしたら愛とは、確認するものではなく、時間をかけて少しずつ育てていくものなのかもしれない。