第7話:独り占めできない人
彼は、何事もなかったかのように私の前に現れた。
いつもと同じ香水、いつもと同じ声、いつもと同じ笑顔。
けれど
もう知ってしまった。
彼が、私の知らない時間に、別の誰かを見つめていたこと。
それでも私は、知らないふりをした。
バカだと思う。でも、それでもよかった。
「会いたかったよ」
嘘だ。
「遅くなってごめん、仕事が長引いてさ」
嘘だ。
「君しかいない」
一番、苦しい嘘だった。
私は、笑った。
そうやって騙していて。全部、知ってるのに。
でも、全部許してしまうから。
「ねえ、キスして」
言葉の温度を測るように、私は彼に触れた。
彼は何も疑わず、私に口づけた。
その唇が、誰のものだったかなんて、もうどうでもよかった。
この瞬間だけは、彼は私のもの。
そう思えるなら、私は壊れてもいい。
彼がシャワーを浴びに行ったあと、私は彼のスマホをそっと開いた。
ロックの番号は知っている。誕生日、私に教えてくれたあの日から変わっていなかった。
履歴に「カナコ」はいなかった。代わりに、別の女の名前があった。
何人いるの? 彼の“特別”は、いくつあるの?
私だけじゃないことを受け入れるには、私はあまりにも彼を深く愛してしまっていた。
シャワーの音が止まる。
スマホを閉じ、私はベッドに潜り込む。
彼の声がする。
「ねえ、寝たの?」
私は目を閉じたまま。
嘘をつくのは、きっと彼だけじゃない。
第8話:失う恐怖と、愛の値段
「君は、僕を失うのが怖いだけだろ?」
それは、彼が吐き捨てるように言った言葉だった。
私が少しだけ感情をこぼした時だった。
夜の街を歩いていて、手を繋ぐことを拒まれた瞬間。
「誰かに見られたら困るの?」と聞いた、ほんの小さな棘が、彼には重かったらしい。
「怖いよ」
私は、素直に答えた。
怖いに決まってる。
愛がなくなることも、腕が届かなくなることも、彼が他の誰かと笑い合ってる姿を想像することも。
全部、全部、耐えられない。
彼の存在は、私の価値を形作っていた。
彼に求められている間だけ、私は“誰かでいられる”。
「ねえ、私って、何なの?」
私は聞いた。
「恋人? 都合のいい相手? それとも……ただの暇つぶし?」
彼は少しだけ黙ってから、ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
ライターを探すふりをしながら、目を合わせない。
「言葉にすれば、全部壊れるよ」
それは、答えではなかった。
でも私はその言葉に、どこか安心してしまった。
“答えない”ということは、私をまだ手放す気がないということ。
矛盾してる。分かってる。
それでも、私は彼を手放せなかった。
彼を失えば、私の世界の色が一気に失われてしまう。
だから、傷つくことに慣れてしまおうとした。
「好きでいる限り、傷つくのは当然だ」と、言い聞かせて。
夜が深まるたび、彼の愛は私を蝕む。
でも、それを「幸福」と錯覚してしまう私がいた。
“壊れてでも愛されたい”という願いが、
“壊さなければ愛されない”に変わるのに、そう時間はかからなかった。
第9話:私たちは、同じ毒を飲んでいる
「ねえ、あなたも気づいてるでしょう?」
再び彼女と会ったのは、あの雨の日からちょうど三週間後だった。
不思議なことに、私たちはもう敵ではなかった。
“共有者”として、同じ闇を抱える女同士。
「私たち、同じ毒を飲んでるの」
彼女がそう言ったとき、私は笑いそうになった。
ああ、そうだ。
私たちは、彼という男に惚れて、狂って、堕ちて、同じ毒に侵されている。
「別れられないんだよね」
「うん。頭ではわかってる。時間の無駄だって、幸せになんてなれないって。だけど、ダメなの」
「彼の嘘でも、温もりでも、どうしても欲しくなっちゃう」
私たちは、まるで鏡の中の自分と話しているようだった。
違う顔、違う人生、違う言葉。
それでも根っこは同じ。
愛されたいという欲望と、
誰かに必要とされたいという哀しみ。
「彼にとって、“一番”って何だと思う?」
「誰よりも都合がいい女。誰よりも彼を傷つけない女。誰よりも何も聞かない女」
彼女が言ったその言葉は、刃物より鋭く、胸を裂いた。
“何も聞かない女”――
私は、そうなろうとしていた。
聞きたいことをすべて飲み込んで、笑顔で彼を抱きしめて。
だから彼は、私を離さなかったのだ。
でも、それが愛だったのだろうか?
愛とは、痛みに耐え続けることだったのか?
「ねえ……」
私は小さく呟いた。
「私、きれいになりたい。強くなりたい。
“こんな男いなくてもいい”って笑えるような、女になりたい」
それは、今の私への裏切りのようで、でも未来の私を救う祈りでもあった。
彼女は静かに微笑んだ。
「……それ、きっと私も思ってる。
でも、今日もまた、彼からのLINEを待ってるんだよね」
毒は甘い。
中毒性がある。
それを解毒するには、もっと強い“自分自身”を手に入れるしかなかった。