「付き合いたての頃って、何話しても楽しかったのにね」
ある日ぽろっと、友人がそんなことを言った。
わかる。わかりすぎて、グラスのワインが少し苦く感じた。
会話が途切れるのが怖かった、あの頃。
沈黙すらも“間”ではなく、“間違い”のように感じて、
必死に話題を探して、笑って、繋いでた。
でも、関係が深まって、慣れてきたら、
沈黙はむしろ“心地よいもの”になると思っていた。
ところが——
最近のその沈黙には、妙な“気まずさ”がある。
ソファで並んでテレビを観ていても、
スマホを触る音ばかりが部屋に響く。
「ねえ、今日どうだった?」と聞けば、
「ああ、まあ、普通」とだけ返される。
そしてまた沈黙。
この静けさって、もしかして“終わりの始まり”なんじゃないか?
そんな疑念がふと、心をかすめる。
本当に居心地のいい関係なら、
沈黙すらも、ふたりの間の“安らぎ”になるはず。
でも今の私は、その沈黙のたびに、
「嫌われたのかな」
「飽きられてるのかな」
「私、なんか悪いことしたっけ?」と、
勝手に自己反省大会を始めてしまう。
そもそも沈黙って、相手との“距離感”を映す鏡だと思う。
心が近い人といる沈黙は、ただ穏やかで、
「何も言わなくてもいい」という安心感がある。
だけど、心が離れかけてる人との沈黙は、
重たく、苦しく、息が詰まる。
だから最近は、自分の気持ちをチェックするようにしている。
この沈黙、心地いい?
それとも、不安?
「話さなきゃ」と焦ってる自分はいない?
もし後者なら、それは関係を見直すサインかもしれない。
ただ、沈黙が悪いわけじゃない。
話すことが減るのも、長く付き合っていれば自然なこと。
だけどその“会話の減り方”には、質がある。
たとえば——
話したいけど言い出せない沈黙。
話しても伝わらない気がして、諦めた沈黙。
話したところで、またすれ違うのが目に見えてる沈黙。
そういう沈黙を“積もらせる”のは危険だ。
本音を飲み込み続けて、会話が減っていくと、
気づけば、目の前の人が“ただの同居人”になっていたりする。
“恋人”だったはずなのに。
でも、希望もある。
話せばわかる関係なら、
この沈黙の違和感を伝えることで、また近づける可能性はある。
「最近、なんか静かだね」
「ちょっと話したいことがあるんだけど」
その一言が、関係の呼吸を整えてくれることもある。
もし、沈黙を選ぶことでしか“平和”が保てない関係なら——
その“平和”って、ほんとに必要?
恋人といるのに気をつかってばかりで、
自由に感情を出せないなら、
その関係はもう“愛”より“我慢”でできてるかもしれない。
会話が減ったときは、
“しゃべらないで済む関係”なのか、
“話してもムダな関係”なのかを、見極めて。
沈黙が心地よいのは、信頼がある証拠。
でも、沈黙が苦しくなるなら、
その沈黙にちゃんと向き合うべきときかもしれない。
恋人同士でいるということは、
言葉を交わすこと以上に、
気持ちを共有すること。
そしてそれは、沈黙のなかにもきっとある。
だから、沈黙の重たさに気づいたら——
黙ってないで、少しだけ勇気を出してみよう。