「もう、何歳だと思ってるの?」
母のその一言で、私は口を閉じた。
日曜の昼、久しぶりに実家に顔を出せば、話題はいつも決まって“結婚”。
「職場でいい人いないの?」「紹介しようか?」
ありがたいような、でもそれって“今の私”が不完全って言われているようで、やるせなくなる。
母のリビングで淹れられた紅茶の温度と、私の心の温度は、どちらもぬるかった。
その夜、私はまた「Noir(ノワール)」のドアを開けていた。
背中を押されたわけじゃない。
でもきっと、ひとりで考え込むには少し心が重すぎたのだ。
「こんばんは」
マスターの声に、無理やり口角を上げて返事をする。
「今日のあなたには、ちょっと優しい白を。シャルドネにしましょうか」
すっと差し出されたグラスから立ちのぼるのは、洋梨とバターのふくよかな香り。
冷たさの奥に、ぬくもりを感じる不思議な味だった。
「……なんか、わたしの気持ちにぴったり」
思わず、口から漏れる。
「ねえ、なんでこんなに“結婚”って急かされるんだろう」
マスターは、ワインの栓を抜きながら言った。
「“安心”を手に入れてほしいと思ってるんじゃないですか」
安心。
たしかに、結婚って「これでよかったんだ」って言えるためのゴール、みたいなものだと思ってた。
でも、今の私ってそんなに“不安定”なんだろうか?
会社では後輩の指導も任されているし、好きな服を買えて、週末は美術館巡り。
恋愛だけが、そんなに欠落してるって言われる理由なんて、本当はないはずなのに。
ふと隣を見ると、若い女の子が座っていた。
キラキラしたイヤリングに、巻いた髪。可愛い子だった。
彼女がスマホを見ながら、小さく笑った。
「すみません。今日プロポーズされたんです。嬉しくて、つい」
その一言で、私の胸にまた波紋が広がった。
結婚していく誰かの報告は、いつだってちょっとした“焦り”を伴う。
自分が置いていかれたような気持ち。
でもそれって――競争じゃないのにね。
2杯目のシャルドネを飲み干すころ、私はふと気づいた。
「私、自分の選んだ“今”を、もっと信じてあげればよかった」
誰かと比べて決める未来より、
私だけの感覚で選んだ時間のほうが、ずっと豊かなはずなのに。
「今日のワイン、いいですね」
帰り際、マスターにそう伝えると、彼はうれしそうに笑った。
「シャルドネはね、自分を肯定したい夜にぴったりなんです」
私の足取りは、来た時よりほんの少し軽くなっていた。
まだ“隣にいる誰か”は見えないけど、それでもいい。
この夜のシャルドネが、静かに教えてくれた。
焦らなくていい。私の時間は、私のもの。