その人の名前は、風間。
大学の同期で、今は広告代理店に勤めている。
数年前、深夜に呼び出されて飲んだ帰り道。
「お前といると楽だわ」って肩を抱かれて、私はちょっと本気になった。
でも彼は、それ以上もそれ以下もくれなかった。
恋人じゃない。だけど、他の女の子の話をされたらモヤモヤする。
そんな“友達以上恋人未満”の関係が、もう何年も続いていた。
「久しぶり」
突然LINEがきたのは、昨日の夜。
「今度の金曜、空いてる?一杯行かない?」
ああ、またこのパターン。
でも…断れなかった。
どうせ誰とも付き合ってないし、なんだかんだ、会いたい自分もいた。
そして今日。
予約してくれたレストランで軽く食事をした後、
「もう一杯だけ行かない?」と誘われて、私は「Noir」のドアを押していた。
「こんばんは。またお二人で来られるとは思いませんでした」
マスターのさりげないひと言に、胸がチクリとする。
以前、一度だけここに彼と来た夜を思い出す。
「ロゼ、ありますか?」
私は先にそう頼んだ。
風間は「俺もそれで」と真似した。
運ばれてきたのは、淡いピンクのロゼワイン。
さくらんぼの香りと、かすかに残るスパイスの余韻。
どこか曖昧で、まさに“この関係”そのもののようだった。
「なぁ」
風間がグラスを揺らしながら、視線をこちらに向ける。
「お前って、なんで彼氏つくらないの?」
心の奥にある何かに触れられた気がして、一瞬グラスを持つ手が止まる。
「…逆に、なんで私とこうしてるの?」
返す言葉が自然と出ていた。
ロゼのせいかもしれない。優しく酔わせて、感情をほぐしてしまう。
風間は少し黙って、やがて答えた。
「お前といると落ち着くから。だけど、恋人には…しちゃいけない気がしてた」
“しちゃいけない”って何?
私は、少し笑ってしまった。
たぶん、それが風間なりの優しさなんだろう。
私をキープせず、でも手放さないための。
「ねえ、もう私、次に進みたい」
その言葉は、ワインの最後の一滴と一緒に、静かにこぼれた。
「……そっか」
風間は少し俯いて、そして小さく頷いた。
「じゃあ、ちゃんと離れるわ。お前の時間、奪いたくないから」
帰り道、頬にあたる風が心地よかった。
何年も心のどこかに絡まっていた糸が、するりとほどけていく。
ロゼワインって、不思議だ。
甘いのに、どこか切なくて、
でも飲み終えたあとに残るのは、“さよなら”じゃなくて“ありがとう”の余韻だった。
恋をやめるって、簡単じゃない。
でも“好きな人を手放す”ことと、“自分を取り戻す”ことは、
実は同じ意味なのかもしれない。
今日はそのことを、ロゼが教えてくれた夜だった。