「ちゃんと愛してほしい」って思う。
でも、「毎日連絡して」って言われると、なんだか息が詰まる。
「私のことちゃんと考えてる?」と聞きたくなる夜もある。
だけど、「どこ行くの?誰と?」と聞かれると、自由を奪われた気がしてムッとする。
愛されたい。でも縛られたくない。
これは、わがままなのか。
それとも、現代の恋愛を生きる私たちの、正直すぎる本音?
「昔はもっと束縛されたいって思ってたな〜」と笑うのは、私の親友エリ。
高校時代、彼氏に毎日電話をもらえないと泣いていた彼女が、
今では「LINEは週3でいい」とか言ってる。
その変化に、私は心の中で拍手した。
だって、それってたぶん、自分の時間がどれだけ大事かを知った証拠だから。
「誰かに愛されること」=「自分を捧げること」だと思っていた頃の私たちは、
少しの嫉妬も、駆け引きも、連絡の頻度さえ“愛の証明”として測っていた。
でも今は、知ってる。
愛は、もっと静かで穏やかで、
“自由でいる勇気”を与えてくれるものだってことを。
とはいえ、自由ってときどき怖い。
「今日は予定があるから会えない」と言われたときの、
ほんの少しの“寂しさ”と“疑い”。
私たちは、どこかでまだ思っている。
「私のことを一番にしてほしい」って。
でも、誰かの“人生の中心”になることと、
誰かと“寄り添って生きる”ことは、似て非なるもの。
相手の人生の一部になることはできても、
その人のすべてになる必要なんて、きっとない。
「なんで彼、私にばっかり予定合わせさせるの?」「LINEの既読が遅いと不安になる」
そう言う友達のグチを聞きながら、
私はふと思う。
愛されるって、どういうことなんだろう?
いつも一緒にいること?
毎日電話すること?
束縛されること?
いや、たぶん、違う。
愛されるって、「安心できる場所がある」と思えることなんじゃないかな。
それは、支配じゃなくて共存。
縛ることじゃなくて信じること。
恋愛が“檻”になるんじゃなくて、“帰る場所”になること。
私は思う。
「愛してほしいけど、自由もほしい」と願うのは、
“自立した大人の恋”を求めてる証拠だと。
だから私はもう、「連絡が少ない=愛されてない」とは考えない。
代わりにこう考えるようにしてる。
「彼が彼の人生を大事にしてるように、私も私の人生を大事にしてる」
それって、きっと最高のバランス。
恋って、どこかで“所有”になりがちだけど、
本当に愛するって、“信頼”のほうがずっと大きい。
「どこ行ってもいいよ」って言えること。
「誰と会っても大丈夫だよ」って思えること。
それは、自分にも、相手にも、しっかりと“自分の軸”があるからできること。
そしてそんな関係の中でこそ、
ふたりは自由で、でもちゃんとつながっていられる。
私たちは、自由を愛してる。
でもそれは、孤独を選びたいわけじゃない。
“好きな人といる自由”と、“自分らしくいる自由”を、
どちらも諦めたくないだけ。
わがままでも、欲張りでもない。
それが、今を生きる女性たちの、リアルな恋のかたちなんだと思う。
だから私は、今日もこう願う。
「私を、愛して。
でも、縛らないで」
それは、甘えじゃなく、ひとつの愛の成熟だと信じている。