Instagramを開いた瞬間、胸の奥がギュッと痛くなることがある。
日曜のブランチ、プロポーズの指輪、旅行先のカフェ、真っ白なベッドに並ぶ2つのマグカップ。
――みんな、こんなにうまく生きてるんだっけ?
スクロールするたびに流れてくる「幸せそう」な投稿たちに、心がささくれる。
いいねを押す指先と、心の温度差がどんどん広がっていく夜。
うらやましい?それとも、悔しい?
「幸せそうな人を見ると、元気をもらえる」なんて言葉を聞くけれど、
本音を言えば、もらえるのは“焦り”とか“劣等感”の方だったりする。
「この人、こんなに完璧な朝食作ってるのに、私いま冷凍チャーハンだし」
「え、また彼氏と旅行?私、ひとりで近所のカフェ行ったのにさえ、ちょっと勇気いったのに」
嫉妬とか、羨望とか、ネガティブな感情を抱く自分に嫌気が差して、SNSを閉じたくなる。
でも、ついまた開いちゃう。
“幸せの証拠”がどこかに落ちてないかって、自分でも気づかないうちに探してしまってる。
幸せの見せ方は、編集できる。
SNSにアップされる写真やストーリーは、どれも“編集済み”の幸せだ。
「いい感じの自分」だけを切り取って、「ちゃんとしてる私」を演じる場所。
誰も“洗濯物がたまった部屋”や、“泣きはらした目で迎えた朝”は載せない。
そう思うと、少しだけ気が楽になる。
あの完璧に見える人も、きっと投稿の前にカメラロールを何十枚もスクロールして、
光の当たり方や構図を選んで、ようやく「見せられる私」に仕上げてる。
それって、私たちがパジャマのままで食べる夜中のアイスと、何が違うっていうんだろう。
誰かの幸せは、あなたの不幸ではない。
「幸せそうな投稿」がつらい夜に、私は自分にこう問いかける。
「それは、本当に“あなたの不幸”と関係あるの?」って。
他人の幸せを見て、自分の今が惨めに思えるのは、比較の罠にハマってるから。
でも、恋人の有無も、家の広さも、フォロワー数も、本当の幸福とは関係ない。
本当に満たされているときって、他人の写真なんて気にならないもの。
だから、誰かの“幸せのかたち”を見て揺れる自分がいるなら、
それは「今、自分にとって足りてないと感じるもの」があるということ。
そしてそれは、必ずしも“恋人”や“お金”じゃなくて、
“安心感”とか“承認”とか、見えにくいものかもしれない。
私だけの“幸せの定義”を持っていたい
投稿しなくても、カメラを向けられていなくても、
私は、私の人生の中で小さな幸せを味わっていたい。
寝起きのコーヒー、友達と笑い転げた日、何気ないLINE、
そして、自分の気持ちにちゃんと寄り添えた夜――それも立派な“幸せ”だ。
SNSが見せてくれるのは「誰かのハイライト」。
でも、人生って映画じゃない。編集もフィルターもない、本物のドラマ。
だから、どんなに“幸せそう”な投稿に出会っても、
「私は、私の物語の主人公」と思える自分でいたいと思う。
そのとき初めて、“人の幸せ”を素直に祝福できる、
本当の意味での“大人”になれる気がするのだ。