“好きになったのは、間違いだったのかもしれない。でも、あなたを愛した私は、嘘じゃない。”
第1話:「この人は、私を壊してくれる」
30代半ばを過ぎた頃、自分のことを“分かっているふり”をするのが上手になった。
「大丈夫。私には仕事もあるし、友達もいるし、自由がある」
そう言って、誰もいない部屋に帰る日々。
大丈夫じゃないことなんて、分かりきっていたのに。
彼と出会ったのは、梅雨が明ける直前の蒸し暑い日。
雨上がりのアスファルトから立ちのぼる熱気の中で、彼はひどく涼しい顔をしていた。
「お姉さん、煙草、吸うんだ?」
それが最初の言葉だった。5歳下。指先に火を点けながら、私のことを“壊れるのを楽しんでる花”みたいに見るその眼差しが、妙に懐かしくて――私は笑ってしまった。
彼は不器用なほど一途だった。
私を見つめる目には、いつも「欲しい」が滲んでいた。
でもその愛は、優しさだけじゃなかった。
支配と独占、甘やかしと冷酷が入り混じっていた。
「お願い。今夜は帰らないで」
「君には、俺以外いらないでしょう?」
言葉を拒めば泣かれ、抱きしめれば、逆に壊れていくのは私だった。
第2話:濡れた指先と、夜の香り
夜の湿気が髪にまとわりつく頃、彼の部屋に私はいた。
ベッドの上には白いシーツ。アイロンの線がまだ残っているのに、私の躰はもう、その清潔を穢す準備をしていた。
彼は私の濡れた髪をタオルで拭きながら、「なんで来たの?」と小さく笑った。
言葉の裏にある意図は分かっている。
私のことを、彼は愛している。たぶん誰よりも。
だけど、それは「守る」でも「支える」でもなかった。ただ「欲しい」。ただ「離したくない」。
そういう種類の愛。少し歪んでいて、でもどこまでも純粋だった。
私が少しでもよそ見をすれば、彼の手は震え、瞳は濁る。
愛されることに飢えていた私は、それすらも心地よくて、
「壊れてもいい」と思いながら、腕の中に収まった。
彼の体温に触れると、いつも不思議な懐かしさがあった。
まるで、自分のどこかが彼をずっと前から覚えていたような、そんな感覚。
「誰にも言ってないんだけど」
彼が呟くように言った。
「君が初めてなんだ。こんなふうに欲しいと思ったの、怖いくらいに」
私はその言葉に微笑んだ。
「それ、何人目に言ってるの?」
「君だけだよ」
そう言って彼は私を強く抱きしめた。
その腕に、逃げ場はなかった。
それでも私は、自分の胸の奥で何かがざらついているのを感じていた。
安心と、不安と、快感と、恐怖。
それらが一度に押し寄せて、心がどこか溺れていく。
第3話:知らない女の名前
目を覚ましたとき、彼はいなかった。
部屋の中には朝の光が静かに差し込んでいて、昨夜の熱は、まるで幻だったように空気に溶けていた。
私はシーツの中でしばらく動けなかった。
彼の温もりがまだ体に残っているのに、心はもう冷めかけている。
ベッドの横に置かれたスマートフォンが、震えた。
誰かからの通知。ひとつ、ふたつ、続く短い着信。
私はそれを見てしまった。
ディスプレイには、女の名前。私じゃない誰か。
「カナコ」と表示されていた。
何気なくスワイプしてしまいそうになる自分の指先を、私は必死で止めた。
信じたい。
だけど、疑うことをやめるには、私はもう彼に深く沈みすぎていた。
「愛してる」なんて、何度も言われた。
けれど、本当に愛されているのかどうか、証明する方法なんてどこにもなかった。
音もなくシャワーの音が止まった。
私はスマートフォンをそっと元の位置に戻して、目を閉じた。
眠っているふりをしながら、思い出す。
数日前、「誰にも言ってない」と彼は言った。
私が“初めて”だと。
――嘘をつくなら、もう少し上手くやって。
心の中で呟く私がいた。
それでも。
彼の声を聞いたら、私はまた笑ってしまうのだろう。
傷つくと分かっていても、愛されたいと願ってしまうのだろう。
こんな恋、きっとまともじゃない。
でも、私には、もうこの恋しか残っていなかった。